彼女の福音
拾 ― シュレディンガーの猫 ―
「そう言えばさ、あとの二人は?」
あたしはキャッチャーの前で恨めしそうにアリクイを睨みながら朋也に聞いた。ふん、今日のところはこれぐらいで勘弁してやるわよ。
「春原と智代?何だかさっき懐かしい格闘ゲームを見つけたんで対戦しに行った」
「え?嘘。何で誘わなかったのよ?」
「春原誘ってたけど、お前そっちに夢中だったからな」
何だかすっごく損した気分だった。しかもあたしの代わりに行ったのは、どうも智代らしい。
あたしの代わりに智代。
どっかで経験した構図だった。
「あのさ」
少し智代にいじわるをしたくなった。
そういうところが素直じゃないってのは知っていても、あたしにはそれを止める術なんて持ってなかった。
「陽平……よく智代と遊びたがるわよね」
「はっはっは、そりゃああんな美人で気立てもよくて料理もうまけりゃいろんな男が寄ってくるさ。実際、俺の事務所ですごい人気でさ、大変なんだぜ?ちょっとでも智代とケンカしたとでも言おうものなら、先輩達が全員で『今すぐ俺たちの智代さんに謝って来い』だもんな。俺の智代だってのに」
「いや、そこで惚気なくていいから。それにいいの?そんな奥さんを一人で陽平の傍に行かせて?」
ぴき、と朋也の笑顔にひびが入る。
「陽平ってそう言えば最初の頃から言ってたわよねえ。『智代ちゃん美人だから』とか『今日は智代ちゃんと話したいんだよ』とか」
「そ、そりゃあ、あいつあの頃智代の化けの皮剥こうとか考えてたからだろ」
「ふ〜ん。ま〜朋也がそう信じたいんだったらそれはそれでいいんだけどねぇ」
「……春原殺してくる」
うわ、極端ね。
「はいはい、いってらっしゃい」
「つーかそうだよな、何だか事あるごとに『智代ちゃん智代ちゃん』だもんなあいつ。忘年会でもなんか変なこと言ってたし、今日という今日はあいつに俺の精神への慰謝料払ってもらおうか、内臓外国に切り売りして」
「……何だかすごい物騒な話になってない?」
「お仕置きの時間だ。俺を怒らせた罪は重い」
「おーい、朋也」
急に智代がマシーンの蔭から顔だけ出した。
「どうした智代!春原に何かされたか!」
「いや、違うが、ただ一つ言っておこうと思ってな」
「?」
「何がどう起ころうと、私は朋也以外の男には興味がないからな」
「……何だよぉいきなりぃ、そう言われると、て、て、照れるじゃねえか」
途端に相好を崩す朋也。
「いや、ふと言ってみたかっただけだ。それでは」
智代の顔がまた消えた。一瞬後、悲鳴が聞こえた。
「うっそぉおおおお!何今の必殺コンボ!!しかも今智代ちゃん画面見てなかったじゃん!チートだぁ!!」
頭が痛い。惚気120%男とどうも電波で繋がってる奥さん、そしていい年してアーケードゲームでぼこられるヘタレ。何だかあたしの周りにはまともな連中がいない気がする。
「ま、まあとにかく、だ」
「ええ、殺人は犯罪だしね。いくら陽平でも」
「とにかく智代と春原の間には蹴る方蹴られる方の関係しかないって」
「何か惨めよね、それ」
「しょうがないだろ、ヘタレなんだから」
「そうよねぇ、ヘタレなんだから」
あーっはっはっは。
「……さてと。そろそろ本題に入ろうか」
一しきり笑った後、朋也が真剣味を帯びた声を出した。
「何よ」
「いや、そのヘタレのことなんだがな、どうもな……」
「陽平がどうかしたの?」
「ああ、春原に聞いたんだが、どうもあいつの事好きな奴がいるらしい」
え?
「何の冗談よそれ?ありえないって」
「そう俺も思ったんだけどさ、どうも本当みたいなんだな。何か美人でさ、前に弁当食わせてもらった時めっちゃ美味かったってさ。ほんと、あいつにはもったいない女らしい」
「ふーん」
平静を装うが、ばれただろうか。
「いや、俺も初めて聞いた時はマジで信じられなかったんだけどさ、まああいつも、何だ、二十七だしな。ここいらでゴールしてもいいよね、というか」
「ご、ゴール?」
「ああ。ま、あんなヘタレでもさ、誰か傍にいたらしっかりするだろ。もしかしたら市民権取れるようになるかもな」
「あはは〜それはないって」
つまり、このままだと朋也と、恐らく智代も肩入れしてその女と陽平をくっつける話になるらしい。
何だか、さっきから本当に嫌な気分になる。
朋也や智代のせいじゃない。あたしの中の問題だった。
自分でも整理できていない、どろどろとした感情が、あたしの中で悲鳴を上げている気がした。そしてそれらに抑制が利かなくなったとき、あたしはみんなに迷惑をかけてしまう気がした。
結局あたしは、今のあたしたちが好きなのだ。朋也がいて、智代がいて、三人で陽平を弄ったりして、四人で何かをやったりして。
そういう風にやってきたから、あたしは心地よさを感じられたんだと思う。一人じゃない、あたしには仲間がいる、と思えたんだと思う。
「ま、あたしとは……関係ない話でしょ」
「まあな。ただ、実を言うと杏にも手伝ってもらおうと思ってさ」
「え?何であたしが」
「何でって、一応曲りなりとも俺達、あいつの友達だろ?杏がいれば、百人力だしな」
友達。
そう、あたしはみんなの友達。だからみんなのためにやれることはやらなきゃいけない。
妹のために自分の恋心を押し殺して初恋の人に近づけようとした。
親友のために彼女と初恋の人の恋愛成就を祝った。
そして今、あたしはあいつの恋仲を何とかしてあげようとしている。
ここまでいくと、誰もあたしの傍には居なくなるのを知りながら。
「嫌」
「え」
「嫌って言ったのよ。聞こえなかった?」
「おい杏……」
「この話はそれでおしまい。じゃ、あたし用を思い出しちゃったから、帰る」
そのままあたしはゲーセンを走って出て行った。
気がつけばさっきの公園にいた。ベンチに座ってハトに餌をあげてる。
ほんと、あたし何やってんだろ……
今日は朋也のための日だったのに、結局言い出しっぺのあたしが先に帰ったら世話はない。恐らくみんなゲーセンで呆れ返ってるんじゃないだろうか。
いや、もしみんなが「ま、杏だしな」とか言って納得してたら?もしもうあたしのことを勝手な女として見限っていたら?
「杏!」
急に声が聞こえた。朋也が、向こうから走ってきた。全く、あんたの休日なのに、何汗だくになってるのよ。
「杏……話が、あるんだ」
「何」
自分でも嫌になるくらい、感情のない声が出た。
「さっきの話なんだけどさ」
「だったらもう言うことはないわ。他あたって。あとあの馬鹿にお幸せにって言っておいて」
「違うんだ。俺、杏に謝らなきゃいけないんだ」
「はぁ?何を?あたしはね、別にいいのよ陽平が誰とでも付き合ったって。そうね、そしたらあたしみたいのがウロチョロすると変な誤解生むから、あたしちょっと陽平とは距離を置こうかしら」
「杏、もういいから」
「世話の焼けるヘタレよね、ほんと。どんな物好きかしら、そいつ。まっ、大した女じゃなさそうだけどね」
「もういいって」
「あ〜あ、ほんと、馬鹿みたい……」
最後の方は、尻すぼみになってしまって、自分でも誰に向けての言葉なのか解らなくなってしまった。
「なあ杏」
「何よ」
「ここには、もう誰もいないな」
「……そうね」
「俺ってさ、昔から馬鹿だし、物覚えも悪いから、話を理解することも覚えていることもできないからさ」
「……だから」
「自分を押し殺すの、もうやめろよ。な」
たった一言。
それだけだった。
あたしは、結局泣いていたんだと思う。顔には出なかったけど、もうそれを隠すことぐらいはできるようになったけど、心の中じゃ、もしかするとさっきから泣きじゃくってたのかもしれない。
でも、その一言を聞くまで、あたしはそれを認めようとはしなかった。
「……あたしは、その、違うんだから。陽平なんて、気に、なんないんだから。うん、平気。平気よ。大丈夫……じゃない」
建前を全部使い切って、残った本音がぽろぽろとこぼれてきた。
「自分でも、わからないのよ。あんなの、あいつなんて、絶対に、死んだって好きに、なってやんない、ないって、そう思ってたんだから」
でも、それでも陽平が誰かといることになるのが嫌だった。
みんなと、陽平と、もう少し馬鹿をやっていたかった。
わがままかもしれないけど、もうちょっとだけ陽平と一緒にいたかった。
恋じゃないかもしれない。そんなもんじゃない、と思う。
でも、一緒にいた時間は確かに輝いていて、それがずっと続いてほしいと思っていることも確かで、そしてそんな時間をずっと過ごしてくれるような奴って言ったら、一人ぐらいしか頭に浮かばなくて。
「なあ、さっきの話な」
「……うん」
「あれ、半分は嘘なんだ」
「……え」
「さっき話してた時点じゃ、そんな子はいなかったんだ」
「嘘、だったわけ?」
「まあ、そうかもしれないってわけでさ。ただ今は違う」
「何よ。さっきと今と、どう違うのよ」
「お前だってわかってるんじゃないか?春原のことを好きな女なんて、しかもさっきの条件に当てはまるようなぴったりの女なんて、一人しかいないってこと」
シュレディンガーの猫、という理論がある。
趣味の悪い実験で、詳細はよく覚えていないんだけど、猫をある一定の時間が過ぎると殺す装置が入った箱に、猫を入れ、蓋を閉める。一時間後、猫は死んでいるかもしれないし、生きているかもしれない。つまり、蓋を空けるまでは、猫は生きていて、かつ死んでいる、という理論だ。
あの時点では、あたしは自分が陽平のことを好きなのかどうかわからなかった。だから、朋也の話していた女の子がいたのかどうか、誰もわからなかった。でも、今じゃあ……
「恐らくいるんでしょうね、そんな子」
「恐らく?はっきりしないな」
朋也が苦笑した。
「さっきも言ったでしょ、あたしは陽平のことが好きなのかわかんないって。あんたも知ってるとおりヘタレだしね」
「まあ、そうだよな」
「でもね、あたしは知ってる。陽平って、本当にいい友達なんだって。いい奴だってこと。だってさ、考えてもみなさいよ。あいつ、この町に住んでるわけじゃないのよ?なのに招集掛けるたびに律儀に列車に飛び乗って来てくれてる……あたしみたいなのが声かけてもね。それって、普通じゃあまりできないわよ」
そういうところが、あいつの優しさだった。恐らく、誰も気づいていないんだろうけど、あたししか知らないあいつの側面なんだろうけど。
「長年一緒に馬鹿やってるとね、そういうのが見えてくんのよ。逆に、ちょっとぐらい顔が良かったり金持っててもさ、やっぱりあたしはあんたと陽平とに比べちゃうのよね。やっぱこいつだめだわって」
「そりゃどーも」
「だからね。もし、もしもよ?もし、あいつが、三人でバスケやった時みたいに本気見せてくれたら。もし、命がけできっかり自分の人生見据えて何かやる所見せてくれたらさ」
急に、本当に自然に笑みが浮かんできた。
「あたし、あいつに惚れちゃうかもしれない」
不意に朋也も笑顔を返してきてくれた。
「……そいつは厳しい条件だな。いつそんなことするか、わかんないな」
「まあ、長い目で見させてもらうわよ。今更急ぐわけでもなし、ね」
静かな公園に、ちょっぴり疲れた笑い声が響いた。
「さてと、戻るか?」
「記憶、失ってね?何なら手伝うけど?」
「……いや、いいっす」
「ねぇ」
「ん?」
「写真、見せて」
朋也がデジカメを取り出してあたしに見せた。あ……はいはい、智代ちゃんたらこんなところで惚気ちゃってとんでもなく女の子らしいざますわねおーほっほ。
「いい写真……よね」
「ああ」
四人で撮った記念写真。
それは、時間の流れの、一コマの光景。
あたし達が一緒にいたという、確たる証拠。
「そして……四人で撮った最初で最後の写真でした」
「って何不吉なこと言ってるのよあんたは!」
電話帳が馬鹿一人の頭に埋没する音は、結構大きく響いた。